異国、イズレーンの片田舎にある寺院へついたのは数日後の夕方だった。  周囲はあの日を思い出すようなオレンジ色が混ざった日差しに染まり、遠くからカナカナカナと、帝国ではあまり馴染みのない物悲しい鳴き音をした蝉の声が聞こえてくる。 「いらっしゃいませ、コトリさん。すぐにお茶を準備しますね」  住職の姿を探すまでもなく、前にここに来た時と同じ縁側に座っていた。  私が訪れた事に驚く事もなく、妙に手馴れた様子でお茶の準備をしてくれた。 「………」 「………」  私は勧められるままに縁側にすわり、緑色をしたお茶を静かに飲んで行った。  住職は何も聞いてこない。  ただの沈黙が何よりありがたかった。 「………英雄って何でしょうか」  ぽつりと呟くように口から言葉が漏れる。 「人々の憧れ、心の安寧。兵士達の憧れ。  それと共に戦争という血で血を洗う残酷さから目を逸らす為の偶像です」  相変わらず生々しくも残酷な事をさらりと言う。  今度は私の口から反論が出ることはなかった。 「じゃあ”あの人”もこんな思いをしてきたんですか」 「はい。英雄が出る戦場は多くの血が流れます。  敵も味方も、多くの人々が。  今回は味方の血から生まれた恨みだったようですが、敵の中に生まれる怨嗟はもっと数が多い。  英雄として活躍するという事は、敵も味方も関係なく多くの怨嗟を受けます。  英雄とはその怨嗟を身にまといながら、希望や憧れすらも背負うという事です」 「重いですね。つぶれちゃいそうです」  口から出たのは酷く力のない言葉だった。 「―――コトリさん、英雄の資格があるかどうか知りたくはないですか?  真実を知ってなお、また剣を手に取れるなら、きっとあなたは英雄の素質があります。  なるまでにどれだけの時間と幸運が必要かはわかりませんが、長い研鑽の果てに必ず”そこ”に手が届きます」 「……何を、言っているんですか?」  呆然とする私を前に、住職は法衣の裾から一組の書類を取り出した。 「ヴァルトリエの帝都でコトリさんを襲った少女についての真実です」 「…!教えて、教えて下さい。どんな残酷な事になるか分からないけど、私はそれを知らないといけないんです!」 「分かりました。  少女の名前はキシュリール・ベイト。帝国の元貴族の生まれですね。  家は没落して両親は幼い頃に病死、歳の離れた兄と共に暮してきました―――」  病弱な少女は兄と2人で暮らしていた、兄が戦死して見舞金が出たものの、戦争中だけにその金額は少なく、そう遠く無い未来に病弱で働く事が出来ない少女は死んでいたらしい。  でも、それが訪れるのはずっと先のはずだった。  少女が私を襲った背景に陰謀も何もなく、ただ兄を失った悲しみを恨みにかえて、それを私にぶつけてきただけ。  そして、少女は病死などではなく。  パレードの最中に英雄候補を襲った、国家に対する反逆だとして背後関係を徹底的に調査―――  人間としての尊厳、女性としての尊厳を踏みにじるような尋問の結果、独房の中で自殺した。  そして、悲劇的ともいえる境遇の少女の事を表ざたにしたくない国も、その自殺を手伝いこそしなかったものの、止める事をしなかったという。  カナカナカナカナと鳴いている蝉の声が遠くに聞こえる。 「辛いですか?」  俯いて言葉を出せない私に住職が声をかける。  当たり前だ、まだじくじくと痛む腕の傷よりも心の方がずっと痛い。 「ですが、こんなのは戦争に関わると当たり前のように転がっている”良くある悲劇”です」  良くあるなんて言葉で流したくない、だってこれは私にかかわりがある事なんだから。 「この瞬間も多くの人が戦争の余波で苦しみ、嘆き、絶望の淵でもがいています」  聞きたくない、知りたくない。  私が憧れた英雄はそんなものと無縁だって信じたい。 「心を苛む、その痛み。それすらも耐えて―――あるいは心の傷から血を流しながらも立ち上がり、今苦しんでいる人の為に戦場に立つのが”英雄”です。  あなたは、それでもなお英雄に憧れますか?」  ―――わたし、は……私は。 ◇  周囲が夕焼けのオレンジ色に染まる寺の参道、カナカナと鳴く蝉の声が今の心には心地良い。  今まで夢を見て憧れていた英雄と、その輝きが隠していた戦争の影を知った帰り道。  どこか穴が開いて涼しげな夕暮れの風が通り抜けているような心には、ずっと耳に残っていた言葉が繰り返し浮んでは消えていた。  墓参りの帰り道にも同じ言葉が浮んでは沈んでいたが、その時は遠い世界の事のように感じていたのに、今はその距離が近い。 『英雄ですか。  あなたのその小さな肩に人々の希望と賞賛、そして悪意と怨嗟を同時に背負う覚悟がありますか?』  今ならその言葉が耳に残って離れなかった理由がはっきりとわかる。  私は英雄譚に憧れる子供のように、英雄というお伽話じみた幻想にただ憧れていただけなのだと。 「…………重い、なぁ」  自重じみた思い溜息と共に声が口から漏れる。  ずっと胸に抱いていた憧れが、心に刻まれた傷の痛みを強くしていた。  今まではただ無垢に剣を手に取り、戦場に出で戦っていた。  戦友の為、人々の為、国の為と英雄らしい建前で目と耳を塞いだまま敵と味方、一体何人の人生を奪い、消し去ってきたのだろう。  そもそも私には戦争をしている―――命を奪い、奪われる場所に立っている自覚があっただろうか。  英雄に憧れていたのに、英雄になるためにはどうしたらいいかと、深く考えたことすらなかった。 「私今まで、何も考えてなかったんだなぁ…」  ”あの人”に会った時のことを思い出していた。 『私、――さんに憧れてて、――さんみたく英雄になりたいなって想っててっ』  ”あの人”は確かその後、少し困ったような、でも綺麗な笑顔で私に教えてくれていたじゃないか。 『英雄は目指すものじゃないですし、自ら名乗るものでもありません。これは、少しだけ先輩の私からの助言ですが…  強くありたいと思うのなら、自分が剣を持つ理由を明確に持つと良いですよ』  そう言ってくれたのに、ただ言葉をかけてくれた事に舞い上がっていた。 「剣を持つ理由……」  私は何のために剣を手に取ったのだろうか。 「大切な誰かを守りたいから?あの人みたいな英雄に憧れたから?……違うよね」  それは剣を持ってから想ったものだ。  初めにそう想ったのは…そう、サツキおばさまが剣を振るう姿を見た時だ。  戦場ではなく、にぃにの訓練の時だったかと思う。  剣を振るうその姿、その眼差し。幾千もの戦場を駆け抜けた、かつての英雄。  その姿があまりにも凛々しくて綺麗で、私もこんな風になりたいと羨み、憧れたんだ。 「……そっか」    今になって初めて、自分がどうありたいのかがわかった気がする。  サツキおばさまも”あの人”も英雄だけど、英雄だから憧れたわけじゃなかった。  私は英雄になりたい訳ではなかった。  歴史に名が残るような何かを成したいわけでもない。  きっと強くなりたいとすら思っていない。  自分の信じた道を貫く姿に憧れた。  自分が信じたものを恥じる事なく、まっすぐに世界を見据える瞳を私も欲しいと羨んだ。  私もあの人達と同じになりたかった。  たったそれだけの事だったんだ。 「自分の道なんて、考えたこともなかったなぁ…」  ”あの人”は自分にはやるべき事があるからと言っていた。  住職さんは”あの人”も同じ思いをしてきたと言っていた。  なるほど確かに、自分の信じる道があるなら、立ち上がれる。  その道が例え間違っているのだとしても、間違った道こそが自分の道だと言い張れるなら立ち上がれる。  自分にはそれが無かった。  だから立ち上がれるはずもない。 「…自分の信じる道、か」  参道の竹林の間から見上げる夕日が目に染みた。 ◇  数日後、国に戻った私はすぐに戦場に戻っていた。  荒地のあちこちで金属同士がぶつかる剣戟の音や魔法の炸裂音、傷を負った兵士の悲鳴が響いている。  まだ私の信じる道は見つかっていない。  心の傷は癒えていない、瞼を閉じればあの少女の顔が現れてそのたびに心が鋭く痛む。  憧憬が目を隠してくれていた恐怖を肌で感じて新兵のように体が震える。  けれど、逃げるわけにはいかない。  ”あの人達”のようになりたいと憧れ、願った想いだけは本物なのだから。  あの少女の事を忘れない為にも、この肩に背負うためにも。  この果てにあるのが、ただの愚者か英雄なのかは分からない。 「コトリ=ブルークロス。いざ、参りますっ!」  声を出して恐怖をやわらげ、戦いの渦中へと飛び込んでいく。  どんなに無様だと笑われたって良い、  逃げ出したい心を押さえつけ、歯を食いしばってでも今は戦い続ける。  ようやく見つけた本当の憧れを追い続けるのが、今の私が追いかけられる唯一の道なのだから。 ー了ー